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仕事を通じた様々な人との出会い、学びが ピアニストに大切な豊かな音楽性や表現力の源に

ピアニスト

吉藤 佐恵


アンサンブル金沢との共演が実現

ピアニストが私のライフワークです。現在はクラシックコンサートを開催する傍ら、ピアノ教室を運営しています。仲間と集まり、次のコンサート「どうしようか」なんて企画を考えているとワクワクしてきます。

師事している先生が、アンサンブル金沢のピアニストで、そのご縁で、私もアンサンブル金沢と共演することができました。先生には私のような生徒が何人もいるのですが、ここでも新たな企画を考えているところなんですよ。夢がどんどん広がっていく感じがします。

しかし、10年前までは状況は全く違っていました。3年間の音大生活を終えて、大阪から金沢に戻った私は、演奏機会もほとんどなく、高校時代の仲間や、音大のOBで集まって手作りで音楽発表会などを開催する程度でした。収入は、子供の頃からお世話になっていた楽器店で、ピアノ教室の先生としていただいていましたが、学生時代に思い描いていた音楽家生活とはなんだか違う気がしました。

ピアノの先生が嫌いだったわけじゃないのですが、楽器店と自分の考え方のズレが徐々に大きくなってきて、気がつくと社内で浮いた存在になっていました。

楽器店では、教えるプロになって欲しかったようでした。生徒募集も協力的でしたし、子どもたちの発表会も積極的に手伝って下さいました。でも私がやりたかったことは「それ」ではなかった。

「もっと演奏がしたい」って心が叫んでました。
ピアノの先生が本業になると、教える方ことがメインになってしまい、演奏者として自分自身を成長をさせようという気持ちが弱くなってしまう。そういう方を多く見てきました。教えることは好きだったのですが、ただ教えるだけの先生にはなりたくなかった。

私には持論がありました。ピアノ講師は、経験を積み重ね、自らを日々高めようと努力し続けている真の演奏家でなければならないと。生徒が緊張した時や、スランプになった時に、自らの体験からアドバイスができる先生。ピアノを教えるにしても、もう一歩踏み込んだ指導がしたいと思っていました。

結局、3年程在籍した楽器店を退職し、独立することに決めました。

私を暖かく支え、育ててくださった楽器店への感謝の思い

退職した楽器店とは小学校1年生の頃からのおつきあいでした。私がピアノを始めたきっかけは、指の怪我のリハビリだったんです。小学校1年の頃にブロック塀に指を挟んでしまい大怪我をしました。指が動かなくなるのではないかと心配した母が、リハビリにピアノが良いとのお医者さんの助言から件の楽器店が運営するピアノ教室へ通わせたのが始まりです。

間もなく、数々のピアノコンクールで受賞を重ねるようになりました。ピアノという楽器が私に向いていたのでしょうね。小学校5年生の時には、旧厚生年金会館(現在は本多の森)で開催されたコンサートにも出演したんですよ。演奏後に客席に響いた拍手や歓声が気持ち良くて、病みつきになっちゃいました(笑)。

嬉しかったのはそれだけではありませんでした。その時に母が初めて白いドレスを着せてくれたんです。何しろ当時の私は、髪はショートで男の子みたい。そのせいかコンクールでもいつも半ズボンでした。だからその時の嬉しさが今でも鮮明に記憶に焼き付いているんです。、また歓声を浴びたい、ドレスが着たいという思いから、さらにピアノに夢中になっていきました。

その後も、コンクールに出場して賞をいただいたり、先生も特別に目をかけてくださいました。高校進学の頃にはピアニストになることを意識していましたね。それで音楽科のある高校へ進学。高校を卒業する際には、楽器店から大学卒業後も、先生として迎えたいというお話しをいただき、音大を卒業するまで待ってもらえるということで大阪音大へ進学しました。

考え方の違いから、やむを得ず退社したとは言え楽器店にはホントにお世話になりました。私を小さいときから暖かく支え、育ててくださったことには今でも深く感謝しています。

ジョブシステムだから続けて来れた自分を理解してくれている安心感

演奏活動をやっていて一番難しいのが、コンサートへの集客です。学生時代からずっと音楽しかやってこなかったので、とにかく人脈が少なかった。人脈を広げようと、経営者の集まりにも入会しました。音楽のコミュニティってホントに狭いんですよ。社会的地位のある大人と話しをする機会も少なくて。そういう方々とお近づきになって、できればコンサートに来てくれないかな、支援してくれるともっとうれしい、なんて考えていました。

ジョブシステムの村上社長にお会いしたのもその会でした。第一印象は、「なんだか話しやすそう」でしたね。

当時は、楽器店を退社して自宅で居候をしていたのですが、いつまでも親に甘えてられないという家の事情もあり、村上さんに仕事の紹介をお願いしました。

それまでピアノ以外の仕事に就いた事はなく、就職活動すらしたことがありませんでした。PC操作も苦手。一度、勢いでハローワークに行きましたが、「応募しても面接は厳しいでしょうね」という職員さんからのきつい一言で、現実を知らされました(笑)。そんな自分のことをわかっている村上さんなら、きっと私にふさわしい仕事を紹介してくださるだろう、という期待がありました。

最初の派遣先は自動車販売店でした。大変でしたね。まず、電話が恐くて。特にタイヤの交換時期になると、予約の電話がジャンジャンかかって来てパニックになりました。中にはきつい口調のクレームなどもあって「辞めたい」と思うこともありました。

しかし踏みとどまれたのはストッパーとしての村上さんの存在が大きかったですね。あと半分は自分の意地かな。「ここで辞めたら、どんな仕事もできなくなる」そんな気がしました。おかげで苦手だったPC操作も身につきました。

やっぱりジョブシステムにして良かったと思いましたね。ジョブシステムだったから続けて来れたと思います。スタッフも女性の方ばかりで、皆さんとても明るい。事務所のアットホームな雰囲気で、職場で辛いことがあってもスタッフの方にお話を聞いていただくと不思議と気分が軽くなるんですよ。

今も、大学で事務職をしています。HPの更新やニュースレターや冊子レイアウトを考えたり、エクセルを使った編集作業など。教えてもらいながら覚えましたね。分からなかったらすぐに聞くこと。教えてもらえばいいんですよ。やればできるもんですね。(笑)

仕事とはリアルに人と関わるということだと思います。

人間関係が自分と気の合う友人ばかりだった学生時代とは違い、社会に出て働くとなると、自分とは全く価値観や思考の異なる人ともうまく付き合っていかないとですから。ほぼ学生気分のまま楽器店に務めていた頃は生活のほとんどがピアノ一色だったので、物の考え方も凝り固まっていましたし、スランプから抜け出すのがすごく遅かった。

でもジョブシステムで仕事を始めてからは、時間や気持ちのスイッチの切り替えができるようになり、短期間で曲が仕上がるなど、集中の仕方にも良い変化がありました。周りの人が仕事がやりやすいように機転を利かせて動くなど、相手のことを慮るうちに、若い頃の頑さも角が取れて、自分で言うのもなんですが、だいぶ丸くなったのだと思います。いい意味で妥協できるようになることで、以前よりずっと楽な気持ちで音楽と向き合えるようになりましたね。

時間の制約などへの焦りは多少あっても、今は仕事と音楽のバランスがうまく取れてますし、仕事をすることは自分にとってプラスの面が大きいと感じています。ピアニストとしてだけではなく、仕事を通して自分の違う側面を知ってもらい、私という人間に興味を持っていただくことで、ピアノを聴いてみたいと思ってくれる人が増えていったら嬉しいですね。

吉藤 佐恵 (よしふじ さえ)

ピアニストとして、ダイナミックな中に繊細さも併せ持つスケールの大きな 演奏とピアノを豊かに響かせる表現力で注目を集める。
金沢市アートホールでのソロリサイタルを皮切りに、 ラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭、神戸にて阪神淡路大震災復興支援チャリティーコンサート、大阪いずみホールでのジョイントリサイタルなど 数々のステージで熱演。
2014年にはオーケストラアンサンブル金沢との 共演を果たす。
【経歴】
大阪音楽大学音楽部卒、同大学音楽専攻科修了
ウィーン・ピアノマスタークラス参加
第11回アジアクラシック音楽コンサート優秀賞
第6回ローゼンストック国際コンクールファイナリスト